第十六話

 
 キリキアの門を突破したマケドニア軍は勢いにのってイッソス湾岸を手中に収めた。
 ダレイオス王は当初このイッソスで海陸からマケドニア軍を挟み撃ちにするつもりであったから、マケドニア軍の神速ぶりが知れようというものであろう。
 ところが、ここで逆にその神速ぶりが仇となる。
 情報力に劣るマケドニア軍はペルシャ軍の集結地に向け進軍を開始するも、それを察したダレイオス王率いるペルシャ軍はマケドニア軍の進路を迂回して背後に回ってしまったのである。
 再びイッソスを奪還したペルシャ軍は、イッソスに留まっていたマケドニアの傷病兵の腕を一人残らず切り落として凱歌を上げた。
 海上交通権を握っているペルシャ軍はいくらでも補給が可能だが、大軍に後背を断たれたマケドニア軍はいまや風前の灯であるかに思われたのだ。

 「…………よかろう、試練を乗り越えるのもまた英雄たるの勤めである」

 にもかかわらずマケドニア軍は意気軒昂である。
 何よりもまず主将であるアレクサンドロスがこの事態を全く恐れていなかった。
 何故なら王の王、ペルシャ世界の精神的支柱たるダレイオスがこうして最前線に出てきた以上、これと雌雄を決することができればほとんどの問題が解決可能であるからだった。
 もっとも、まともな人間であれば圧倒的な兵力を誇る無敗のペルシャ軍を相手に、こうも必勝の念を揺るがせずにいることは出来ないであろうが。

 後の世に優柔不断で惰弱な印象を与えてしまうダレイオス王だが、それは比較対象であるアレクサンドロスがあまりに規格外であっただけで実は有能をもって知られた男だった。
 ギリシャ出身のメムノンを重用したことからもその一端を伺い知ることが出来る。
 即位する以前、辺境の一領主として小戦に追われていたダレイオスは戦が数と情報と補給によって支えられているということをよく理解していた。
 これは即位後、反抗的な重臣たちや後継者を打ち破り、またその資金力でギリシャをよく懐柔したことでも明らかであった。
 王の戦略構想は政治交渉重視の物量戦を志向していたと言ってよいだろう。
 そもそもこのイッソスでペルシャ軍がマケドニア軍を捕捉したことも、軍事学的に言うならば会心の機動戦とも言うべきものだ。
 もしもここでダレイオス王が勝利を収めたならば、長く戦史にアートオブウォーの名を刻んだに違いなかった。



 だからこそ秀才であるダレイオスは天才であるアレクサンドロスを理解することは終生叶わなかったのである。








 「アレクサンドロスは必ずや陛下を狙って突出して参ります。このままでは縦深が薄すぎるかと」

 マケドニアを裏切りペルシャへと身を寄せたアミュンタスは熱弁をふるっていた。
 いや、ふるわざるを得なかった。ここでペルシャ軍が敗北することはアミュンタスの破滅を意味しているからだ。
 もともとマケドニア軍中にあったアミュンタスはマケドニア重装騎兵の衝力がどれほどのものかよく承知していた。
 彼にとって歩兵の中心的役割を担うヘラス重装歩兵はともかく、ペルシャ重装歩兵のカルダケスごときは瞬く間に一蹴されるのは目に見えていたのである。
 そもそもアミュンタスはソコイから離れてイッソスへ向かうこと自体反対であった。
 アッシリア地方でも開けた平野部であるソコイは大軍を運用するのに絶好の地であり、さらにバクトリアやソグディアナから援軍をもらうにも適していたであろう。
 マケドニアの背後を襲う利を差し引いても、イッソスで戦うことの利をアミュンタスは見出せなかった。
 何よりイッソスは大軍が連携をとるには地形が入り組みすぎている。
 もしも一度突破を許せば大軍ゆえに身動きが取れなくなるおそれすらあったのである。
 それにアミュンタスの見るところペルシャ兵の質は自由市民に戦力の基礎を置くヘラス歩兵に比べ大きく劣っている。
 かろうじて騎兵は拮抗していると言ってよいが、騎兵指揮官の質はこれまたマケドニア軍が一枚上手であった。
 ペルシャ軍がマケドニア軍に勝っているのは事実上兵数だけだ。
 それなのに両翼を伸ばして中央に薄い配置をとるなど自殺行為に等しい。
 ペルシャ歩兵は必ずやマケドニア騎兵の突破を許す。だからこそすぐそれに対応できる縦深を持たなくてはならないのだった。

 しかしマケドニア軍の強さを肌で味わったことのないペルシャ軍将校にとって、アミュンタスの発言は弱気の一語に尽きた。
 マケドニア軍とペルシャ軍の間には干上がったピナロス川が横たわっており、これが天然の防壁を成している。
 さらにそこに野戦築城を加えた地形防御力は恐るべきものだ。
 いかにマケドニア軍が精強とはいえ突破することは至難の技に思われた。
 それでなくともペルシャ軍の総数は十万余、マケドニア軍四万余の二倍を遥かに上回る。
 正面の歩兵がマケドニア軍主力を拘束している間に両翼からマケドニア軍を締め上げ、ついには殲滅するというダレイオスの戦術構想のほうがアミュンタスの石橋を叩いて渡るような泥臭い戦術より遥かに洗練され美しく見えるのは当然であった。

 とはいえダレイオスにも不安がなかったわけではない。
 王の王たるペルシャ王も、その実態は間接統治の主権者にすぎないのだ。
 こうして大軍を整えアレクサンドロスにまみえるまで、メムノンを見殺しにせねばならぬほど長い時間がかかったのがそのいい証拠であった。
 万が一敗れるようなことがあれば、ペルシャ王の威信は地に落ち容易に回復することはないであろう。
 統治されるものにとって支配者は必ずしもペルシャ王である必要はないのだから。

 アミュンタスの言うとおりソコイで決戦に及べばペルシャ軍が勝利を収める確率は高い。
 しかしダレイオスには悠長にアレクサンドロスの到着を待っていられない事情が少なからず存在した。
 まず大王が自ら兵を率いた以上、早く目に見える結果を出さなくてはならなかった。
王が出陣していたずらに戦わぬまま時がたてば王の権威に傷がつくことは避けられない。
 そしてもうひとつの事情は、ペルシャ軍が開戦からずっと保っていたはずの海上優勢が揺らぎつつあったことである。
 一度は艦隊を解散したマケドニアだが、再び再編された新マケドニア艦隊は各地の植民市を味方につけつつ既に二度に渡ってペルシャ艦隊との海戦に勝利していた。
 これによりペルシャ軍が奪回した沿岸の諸都市は再びマケドニアの支配下へ置かれることとなった。
 かつてギリシャのアテネが隆盛を誇ったように、海上交通がもたらす莫大な富はペルシャにとっても貴重な収入源だったのだ。
 このままマケドニアに地中海の制海権を奪われることだけは絶対に避けなければならなかったのである。

 「戦いには理をもって勝つべくして勝つ………それが王の戦というものよ。威勢のいいだけの若造にはわかるまいがな」








 両軍の隊形は正面に歩兵を配し、両翼に騎兵を展開したオーソドックスなものであった。
 しかし展開された兵力が尋常なものではない。
 これだけの兵力の集中はペルシャの兵站能力がいかに驚異的なものであるかを物語っている。
 現にこの後ローマ帝国の登場まで十万に迫る兵力動員を行い得た国家はついに現れなかったのだから。

 「…………それで守りを固めたつもりか。所詮は戦を知らぬ御輿にすぎぬようだな」

 確かに攻者三倍の法則はこの時代にも当てはまる。
 防御側の優位というものは本格的な火力戦の登場まで変わることがない事実であった。
 しかし防御側が戦いの主導権をとり得ないこともまた、広く知られた事実である。
 兵力と伝統に優位するペルシャが戦の主導権を放棄したということはアレクサンドロスにとって惰弱以外の何者でもなかったのだ。
 アレクサンドロスは生まれ持った本能で、戦の流れをつかむということを知っている。
 主導権を敵に渡した状態で戦の流れをつかむことは決してできない。
 ただ前に進む勇気の持ち主だけが、戦神の祝福を聞くことが出来るのだということを。






 大ペルシャ軍十万の威容を目の前にしてマケドニア兵士たちの士気は小揺るぎもしなかった。
 アレクサンドロスに対する畏敬が崇拝の域にまで達しようとしているからだ。
 まともな考えをするならば、後背を断たれ、堅固な防衛線を引かれたうえに倍以上の兵数差となれば敗北は必死である。
 しかもその地が遠く故郷を離れた異国ということになれば兵士の士気は加速度的に失われていくのが通常というものであろう。

 「追い詰められたのは我々ではない、ペルシャの蛮族どもである!」

 そう言ってアレクサンドロスは獅子吼した。

 「軍神アレスに誓って我々はペルシャにかつて蒙った汚辱を漱ぎ復讐を果たすであろう!」

 王の覇気が乗り移ったかのようにマケドニア兵たちは高い士気を維持していた。
 もともとアレクサンドロスは自分を特別視する傾向があったが、これまでの博打のような戦の勝利の積み重ねで、その傾向はさらに強まったようにオレには感じられた。

 「怖い………ですか?」

 エウメネスがからかうようにおどけた口調で話しかけてくる。
 実のところ二人とも現在の体調は最悪といっていい。
 本来こうして戦場に立つことは自殺行為に等しい有様なのを二人ともよくわかっていたのである。

 いまやマケドニアの補給状態は最悪を通り越して既に瀕死なのだ。
 新たに艦隊を編成したことで戦費は天井知らずにあがっていたし、ダレイオス王が自ら出陣した以上占領地の警戒レベルもおろそかにするわけにはいかなかった。
 しかもいまだ占領地からは収奪でも行わない限り税収が得られる体制にはない。
 残り少なくなった軍資金をやりくりしてアレクサンドロスの神速に補給を追いつかせるのももはや限界に達しようとしていた。
 そうした事実を前にしてなお、最低限の補給状態を全うしたエウメネスの手腕はまさに瞠目すべきものであった。

 「正直………今回ばかりは後衛でおとなしくしてたいかな」

 それが現実にはかなわないことをオレもエウメネスもよく承知している。
 水準以上の騎兵指揮官を遊ばせておけるほどマケドニア軍に余裕はないのだ。
 それに補給作業の難しさは、補給の実務を知った人間にしかなかなか理解されるものではない。
 太平洋戦争の日本軍の補給担当者もさぞや歯がゆい思いをしたことだろう。

 マケドニアにとっての救いは、このイッソスでダレイオスに勝利さえすれば戦局が変わるのが保障されていることだった。
 それほどにダレイオス王が戦場で敗北するという事実は重い。
 今は反抗的な占領地や帰趨を決めかねている太守たちも、ダレイオスが敗北すればペルシャを見限りマケドニアの旗の下に集うことは明らかだった。
 もっともオレは戦線の後方にダレイオス王が財宝や食糧を山のように抱えていることを知っているからなおさらなのだが。

 「率直なのは君の美点だけど、マケドニアの武人が戦いたくないなんて他の人の前では言うんじゃないよ?」

 そう言ってエウメネスはくすりと笑った。
 この不思議な友人は王家に連なる血を引くにもかかわらず、戦の栄誉にこだわることが少なすぎる。
 確かに個人的武勇はそれなりでしかないが、エウメネスの見るところレオンナトスは行政家として稀有な手腕を持っていた。
 計数に長け、煩雑な事務作業をこなし、民と雑兵への配慮を忘れない。
 惜しむらくは戦場での才が決定的に欠落しているということか。
 もっとも目の前の男はそんな才など決して欲しがりはしないのだろう。それがエウメネスはおかしくも快かった。



 本当に不思議な男だと思う。
 事実を事実として受け入れる、そう言い切ったグラニコスの夜をエウメネスはいまだ鮮明に覚えていた。
 頑迷なマケドニア人らしからぬ見識であった。
 同様の見識を表に出せる人間はマケドニア広しといえどもレオンナトスとアンティゴノスをおいて他におるまい。
 浪漫や名誉よりも目の前の現実を優先する現実主義者であるエウメネスにはどうしてもマケドニア人の直情ぶりが受け入れられずにいた。
 王の側近にまで上り詰めながらエウメネスがネアルコスのようにマケドニアに帰化しない理由がそこにある。

 良くも悪くもレオンナトスは凡庸で裏表のない人間であった。
 それでいながら何かとてつもない英知を隠しているように感じさせるものがあるのだから不可思議なことこのうえない。
 正直なところレオンナトスの補佐がなければ補給路の維持統制は難しかったのだ。
 もしもレオンナトスがいなければ、本国マケドニアから優秀な官僚団を一個小隊は引き連れてくる必要があったに違いなかった。

 だからといって能力を鼻にかけるでもなく、むしろ自分を卑下しているようにすら感じられる。
 しかもヒエロニュモスが間諜組織の長であると知ってもまるで態度がかわらぬお人よしぶりには驚きを通り越してあきれ果てるほかなかった。
 もしもそれが意識してやっているのならレオンナトスは天才だ。
 ああした陰の裏仕事をこなす男は、総じてレオンナトスのような無垢な信頼を寄せられることにひどく弱いものなのである。

 …………もっとも計算してそれができるような男ならこうして友人にはなれなかっただろうがね………。

 年来の友であるヒエロニュモスもレオンナトスにはすっかりイカレてしまったようだ。
 あの気難しい友をして心を開かせてしまうのだから恐れ入る。
 ハリカルナッソスからここまで共に苦労をわかちあってきたからこそ(レオンナトスは一方的に酷使されてきたと抗弁するかもしれないが)断言するが、誓ってレオンナトスは己の命を託するに足りるかけがえのない親友であった。

 「危険であるかに見えて実は王の周りにこそ活路がある。陛下の動きに乗り遅れるなよ、レオンナトス」

 衝力を重視する重騎兵の機動戦は危険そうに見えてその実敵味方ともに損害が少ないものだ。

 二人とも戦闘までさして間がないのを十分すぎるほどにわかっていた。
 もうじきマケドニア軍の隊伍が整うと同時に、アレクサンドロスが自ら先頭にたってペルシャ軍に突撃を開始するであろうということを。





 

 

 

    

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