第四話

 馬上からグラニコス川を見つめる二対の瞳がある。

 長身で男性的な魅力に富んだ歴戦の風格を漂わせる壮年の男は、にわかに慌しくなった対岸の様子を見てニヤリと口の端を吊り上げた。

 

 「やはり我慢ができなかったようだな、坊や」

 

 アレクサンドロスを坊やと言い切ることになんの不足も感じられぬその覇気は、あるいはマケドニアの筆頭重臣パルメニオンに匹敵するかもしれない。

 若干白いものが混じりはじめた髪を手櫛でかき上げる様はなんとも言えぬ色気に満ちたものでさえあった。

 その優秀な手腕を認められつつも、彼がペルシャ軍中で煙たがられる理由はこうしたあまりに絵になるカリスマ性に負うとところも大きいのかもしれなかった。

 ペルシャ軍中に名高い彼の名はメムノンと言った。

 

 

 

 「………勝てるの?メムノン?」

 

 いたずらっぽい笑顔を浮かべながらメムノンを見上げる小柄な女性の言葉に、メムノンは苦笑しながら手を振る。

 

 「必ずしも勝つ必要はない。あの坊やが死ぬか重傷を負うだけでこの戦争は終わる。それがわからぬ阿呆が多過ぎるがな………」

 

 そもそもまともに戦う必要すらない、というのがメムノンの自論であった。

 マケドニア軍には戦費の余裕が全くといっていいほどない。メムノンがわざわざ調査するまでもなくごく簡単な算術さえできればそれは明らかであった。

 前線を焼き払い、略奪を不可能にして要害の地に立て篭もるだけでマケドニア軍は備蓄の食糧を食いつぶして自然崩壊するはずなのだ。

 ところがその説を披露したときのペルシャ軍幹部の対応は陋劣を極めた。

 

 「どうしてわが国の財産を燃やさねばならないのか!」

 「大方戦争を長引かせようという傭兵らしい姑息な企みであろうよ!」

 

 ペルシャ軍においてマケドニアのアレクサンドロスを正当に評価している人物がメムノン以外にいないことがメムノンの立場を一層悪化させた。

 いまだこのときマケドニア王国はペルシャ王国にとって辺境の小国であり、これに対するに戦うことを避け、守るべき民の土地を焼くような真似をすれば、軍内での鼎の軽重を問われかねない。

 ましてダレイオス大王の娘婿にあたるミトリダテスを総大将にいただく精鋭が、アレクサンドロスの如き若造を恐れる理由がなかった。

 個人的名誉を充足させるためにもマケドニア軍は正面から打ち破って見せなくてはならなかったのである。

 

 「………全くしょうがないわね……ろくでもないことになるのは目に見えてるのに、貴方今とってもうれしそうよ?」

 

 既に四十も半ばに達しようというメムノンであったが、このときばかりはまるで少年のように頬を紅潮させてはにかむように笑った。

 

 「因果な武人の性かな………我が手で雄敵を葬りさるということは武人にとって何にも代え難い快感なのだよ、バルシネー」

 

 かつての義弟……そして今は愛すべき夫であるメムノンのこうした子供じみた性格がバルシネーは嫌いではなかった。

 普段は猛々しくも頼もしいメムノンに、なんともいえぬ母性をくすぐられる感覚はむしろ好ましいとさえ言える。しかしその愉悦がメムノンの命と引き換えにするには些細すぎることもまた確かなのであった。

 

 「死ぬことは許さないわメムノン………あなたが勝利の報告に来るのを待ってる……」

 

 凛とした声でメムノンに告げるとバルシネーはそのまま馬首を翻した。

 そんな妻の颯爽とした後ろ姿を見送りながらメムノンはその清冽な美しさに目を細める。

 兄の妻であったときからバルシネーの美しさは際立っていた。………年甲斐もなく恋していた、といってもいい。

 黒々となめらかな黒髪も、大きく澄んだ黒曜石の瞳も、象牙のような白い肌も、女としての美しさをあらわすには十分なものであったが、何より清純で陽気な気質と明らかに常人とは違う魂の輝きが、彼女をあまたの美女たちとは一線を画させているのだとメムノンは信じていた。

 ペルシャ国内での地位を保つためにペルシャ貴族の血を引くバルシネーを妻という形にはしたが、こうして顔を付き合わせれば義姉として一歩引いた立場に甘んじてしまうのは、そうした彼の崇敬と慕情の入り混じった複雑な感情のなせるわざなのだった。

 

 夕暮れが川面を黒く染めようとしている。

 戦端が開かれるまでもうそれほどの時間はかからないであろう。

 マケドニアの陣立てが次第に形になりつつあるのが遠目にも見て取れた。

 メムノンの見るところ、アレクサンドロスは生粋の騎兵指揮官である。その刹那の閃きと果断な決断力を戦場に生かすことのできる騎兵という兵種は、アレクサンドロスがもっとも好むところなのだ。

 だからこそ、右翼に位置するマケドニア重騎兵の中にアレクサンドロスがいるのは間違いないはずであった。

 そしてそれはつまり、ギリシャ人傭兵部隊の中で唯一最前線に投入された自らの歩兵部隊の戦闘正面にほかならなかったのである。

 ペルシャ人歩兵部隊の到着が遅れていることは僥倖だった。

 歩兵戦力で圧倒的に劣勢にたったペルシャ軍は、本来であれば手柄からは遠ざけたいギリシャ人傭兵部隊を前線に投入せざるを得なかったのだ。

 さすがに歩兵の防御力を無視して、騎兵だけで戦えると考えるほどペルシャ軍指揮官も無能ではなかった。

 

 「………さて、こちらも女神の祝福に不足はないが………いったいどちらの天運が勝るものかな?」

 

 

 

*********

 

 

 マケドニアの先陣を切ったのはソクラテス率いるヘタイロイ騎兵の一隊であった。そしてアミュンタス率いるバイオネス人騎兵部隊がそれに続く。

 ごく短い投槍を装備するペルシャ騎兵とは明らかに異なる、全長三メートルに及ぼうとするサリッサと呼ばれる長い騎槍を装備するマケドニア騎兵が行軍するさまは、圧巻の一語に尽きた。

 続々と川中に馬を乗り入れながらも、隊列の乱れを最小限に食い止めるその練度たるや生半なものではありえない。

 その様子は対岸の高台で陣を張るメムノンには手に取るように一望することができた。

 幸いにして月は明るく、日没前とは比較にならぬにしろ良好な視界を確保することが可能であったのだ。

 

 「斜線陣か………カイロネイアとは条件が違うのはわかっているか?坊や………」

 

 この戦にかけるアレクサンドロスの意気込みが並々ならぬものであることは、陣立てを見るだけでも十分すぎるほどに感じられた。

 本来、フィリッポス二世が育て上げたマケドニア軍は密集歩兵をバックボーンとして騎兵を側背に機動させて敵の戦列を双方向から蹂躙することを得意としていた。

 ところがこの戦いでアレクサンドロスは自らがもっとも信頼する兵種である騎兵を先陣に抜擢し、さらにそれを直率するという手段に訴えている。

 斜線陣の要は、先陣が前線を支えている間に遅れて戦闘に加入する後陣が側方を迂回、あるいは突破し挟み撃ちの状況を作り上げることにあるのだが、こうした場合前線を支えるのは通常歩兵の役目であり、迂回突破を図るのは騎兵の役割であるはずだった。

 にもかかわらず騎兵を先陣としてアレクサンドロスが最前線に出てくるあたりに、彼特有の自負心、その背後に見え隠れする願望が透けて見えるようでメムノンは苦笑を禁じえなかった。

 確かに戦にかけてはアレクサンドロスは天才だ。

 敵の弱点を嗅ぎつけ戦局を一変させてしまう統率力と戦術眼には神懸ったものさえ感じられる。

 しかし彼は攻勢の人であって守勢の人ではない。しかも騎兵自体が守勢向きの兵種ではない以上恐れるべき何物もないとメムノンは確信していたのである。

 

  「偉大なるヘレネスの戦いぶりをあなどってもらっては困る……我らはデモステネスの如き輩とは違うのだよ」

 

 メムノンに言わせれば旧弊に囚われて戦術的柔軟性を失ったテーバイやアテネの正規軍がカイロネイアで敗れたのは自業自得としか言いようのないものだ。

 きっと故国を離れて実戦を重ねてきた自分たちがいれば、戦いの帰趨はわからなかったであろう。

 故郷を捨て、異国の地に新天地を見出してなお、彼は偉大なるヘレネスの末裔であった。

 

 

*********

 

 

 粛々と軍馬は進む。

 もうじきソクラテスの騎兵部隊が対岸のペルシャ兵との戦闘を開始するだろう。

 それはつまり、オレにとっての実戦の始まりを意味するのであった

 

 敵の刃がこの身に降りかかれば当然オレは死ぬ。死ねばもちろん未来への帰還の望みも叶わなくなってしまう………。

 その事実が今オレの肩に重くのしかかっていた。

 おそらく戦うこと自体は身体が反応してくれるはずだった。それはこうしてオレが大過なく騎乗していられることでも明らかだ。

 なにせこの時代にはまだ鐙というものが存在しない。両腿で姿勢を制御する技術は一朝一夕でえられるものではないのである。

 無事に馬の轡をとれたとき、オレがどれほど安堵したことか。

 それにレオンナトスという青年の能力は凡庸の域ではあるが決して無能ではないから、雑兵にはそうそう遅れをとることもないだろう。

 しかしどう甘く見積もっても一線級の武将に抗することは難しい。

 よほどの運に恵まれない限り討ち取られてしまうのは目に見えている。

 だがそれ以前に甲冑がひしめき合い、林立する槍先が月光に反射してグラニコス川に銀のタペストリーを織りなしたような光景に我知らず高揚している自分がなにより怖かった。

 一介の一学徒にすぎない小市民のオレがオレでなくなってしまいそうな………ましてこれから殺人を犯す自分が、以前の自分と同じでいられる自信が全く持てなかったのだ。

 

 ………オレは本当に戻れるのか?もしも戻れたとして、それは本当にオレなのか?

 

 戦闘の開始を直前に控えた緊張、昂ぶり………粛然と全身する兵士たちの獣臭さえ漂う生臭い吐息……その生々しさはいかなる戦争映画でも再現はできまい。

 小便が漏れそうなほどに怯えているのに、同時に高揚し、敵を屠ることに喜びさえ見出している自分がいる。

 それがたまならく恐ろしかった。

 軍議の前にはいちいち思い出す必要があったレオンナトスの記憶も、今は生まれたときからこの世界で育ってきたかのように思い起こすことができる。

 おそらくはレオンナトスとオレの驚異的という言葉ですら生ぬるい適合率のなせる業に違いない。

 こうして思考する自分が、果たしてヴラド・エラト・ハウレーンと言えるのか、などと形而上的な問題にまで考えが及び始めたところでオレは頭をふって思考を打ち切った。

 戦場で余計な考え事をしている兵士が決して生き残れぬことはレオンナトスの記憶が知っていたのであった。

 

 「おや、考え事の時間は終わりかい?」

 

 隣を見ればエウメネスが馬を並べてオレの顔を覗き込んでいた。

 もしかしてヘタイロイの槍を見てあからさまにびびったり、鐙のない馬を見て明らかに不審がっていたオレなんかも観察されていたのだろうか?

 もうすぐ戦闘だというのに考え事に没頭するレオンナトスってありえないだろ、常識的に考えて………。

 

 「えええ、エウメネスは戦装束も似合うんだなあ!これだから美形は!」

 

 ………追い込まれると思わず相手を持ち上げてしまう小市民なオレであった。

 実際ヘタイロイたちと同じ兜と鎧を身に着けたエウメネスは、文官であることが信じられないほどの勇ましい男ぶりであった。

 そしておそらくは見かけだけではなく個人的な武勇においても衆に優れているであろうことは、凡庸なレオンナトスにすら感じ取れるほどである。

 マケドニア王国最後の守護者は伊達ではないということであろうか。

 

 「………頼むから変なことを言わないでくれるかい?レオンナトス。さすがにこの場面で爆笑するわけにはいかないんだからさ」

 

 そういったきりエウメネスはうつむいたまま肩を小刻みに揺らしてしまう。

 またオレの言葉がどこかつぼに入ってしまったらしい。

 確かにレオンナトスにはありえない発言ではある。………というかオレはどこまで墓穴を掘れば気が済むんだろうか?

 せっかくの美形がだいなしになるほど顔をゆがめて耐えるエウメネスをよそに、ソクラテスの部隊がグラニコス川を渡りきった。

 

 「放て」

 

 その瞬間ペルシャ軍からまるで豪雨のように一斉に矢が放たれる。

 マケドニア軍もクレタ人弓兵部隊がこれに対抗して射撃を開始するが圧倒的に数で劣るうえ、敵に高所を抑えられていては効果はおぼつかなかった。

 ソクラテスに続いてアミュンタスの部隊も戦線に加入するが、メムノンの率いるギリシャ人傭兵の堅陣は巨大な巌のように小揺るぎもしない。

 さらに両翼からペルシャ重騎兵が投槍を投射し始めたために、ソクラテスの率いる精鋭騎兵にたちまち被害が続出した。

 史実どおり、マケドニア軍の劣勢をもって、グラニコス川夜戦は幕を開けたのだった。

 

 

 

  

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