第五話

 「遅れをとるな!我に続け!」

 

 左翼ではパルメニオン率いるマケドニア重装歩兵が前進を開始していた。

 この戦いが、その実時間との競争であることにパルメニオンもアレクサンドロスも気づいている。

 象徴的にはミトリダテスがいるとはいえ、ペルシャ軍は実質全権を握る統率者のいない6人の太守とギリシャ傭兵からなる連合体なのだ。

 その指揮系統が明確に秩序だてられているはずもなくいざ戦が始まればおもわぬ混乱を引き起こすことは目に見えていた。

 おそらくはアレクサンドロスというエサに釣られて、勝手に戦列を乱すのは想像に難くない。

 もちろんただでさえ総兵力に劣るペルシャ軍が右翼のアレクサンドロスに吸引されてしまえば、左翼からの強襲突破が容易であることは自明の理であった。

 問題は、それまでアレクサンドロスの右翼が持ちこたえてくれるかどうかにかかっていたのである。

 幼いころからギリシャ風の高度な教育を受け、イリアスやオデュッセイアに触れたアレクサンドロスには、自らをまるで神話の登場人物のように考えているふしがある。

 だが現実は神話の英雄譚ほどに都合よくできてはいない。浪漫は決してその身を守る力にはなりえないのである。

 そのことをアレクサンドロスが正しく自覚しているのか、ということがパルメニオンには気がかりでならなかった。

 もう少し現実的で地に足がついた考え方をしてくれれば、申し分のない君主になるのだが………そう、前主フィリッポス二世のように。

 

 「貴方の息子にそれを望むのは間違いですか………フィリッポス陛下?」

 

 誰に聞かせるわけでもなく、ポツリとこぼれたパルメニオンの呟きは、戦塵の喧騒にかき消されるように消えていった。

 

 

 

 

*********

 

 「ひるむな!陛下の御前であるぞ!名を惜しめ!」

 

 ソクラテスの必死の呼びかけにもかかわらず兵たちの反応は鈍い。

 戦場で武勲を重ねてきたマケドニア重騎兵をもってしても、現在の状況は手に余るものであったのだ。

 

 ………まだペルシャのぬるい騎兵だから凌いじゃいるが………!

 

 ペルシャ騎兵は伝統的に騎兵の突撃衝力よりヒットアンドアウェイの投射戦を重視する傾向にある。

 損害は蓄積されるが、戦列を崩されて一気に息の根を止められるリスクは少ない。

 それよりも問題なのは目の前のギリシャ傭兵部隊であった。

 鉄壁という言葉を絵に描いたような堅陣ぶりである。

 もともとギリシャ型の密集歩兵ホプリタイはマケドニア密集歩兵より密集度が高く大きな盾を装備していることも相まって防御力がすこぶる高い。

 逆に密集度の高さが仇となって致命的に機動力が低く、また一旦戦列を崩されると再び持ち直すこと極めて難しい。

 カイロネイアの戦いでの敗戦はまさにその間隙をアレクサンドロスに衝かれたものであった。

 しかし今日のようにあらかじめ地形的優位を得た場所で拠点防御を行うかぎり、これほどに厄介な敵もいないであろう。

 対岸に橋頭堡を得るどころか一歩たりとも進めぬ体たらくにソクラテスは歯噛みした。

 もうアレクサンドロスの本隊がすぐ後ろに迫っている。

 逆にペルシャ騎兵は続々と増強され情け容赦のない攻撃を繰り返しつつあった。

 認めたくはないがなんら成果をあげられぬままに兵の一割を損耗するという手詰まりの状況に背筋をのぼる寒気を抑えることができない。

 

 ………どうすれば……どうすればこの劣勢を跳ね返せる?

 

 先陣の名誉を賜りながらこのままなすすべなく王の到着を待つことは、ソクラテスにとって恥辱でしかない。

 しかしいくら考えてみても打開の道筋は見えなかった。

 

 

 

 アレクサンドロスが巨大な愛馬ブケファラスを駆って高々と名乗りをあげたのはそのときである。

 

 「マケドニア王と名誉を分かちあおうという勇者は余に続け!」

 

 わざわざ自分から名乗りをあげるとか!
 これではあえて夜戦を選択した意味がない。

 しかしこのアレクサンドロスの無法ともいうべき暴挙によって戦線は大きく動こうとしていた。

 

 

 

*********

 

 

 馬上に立ち上がり剣を抜いて獅子吼するアレクサンドロスにオレの目は点になっていた。

 警護の部下を置き去りに最前線に乱入してしかも堂々と名乗りをあげるって……アレクって馬鹿なの?死ぬの?

 

 「いや………英断かもしれません………」

 

 エウメネスの声は素直な驚きと賞賛に満ちていた。

 納得のいかないオレの視線を感じたのだろう。エウメネスは槍を抱えていない左手をペルシャ軍の中央へと向けて言った。

 

 「ごらんなさい、既に中央の戦列が崩れてこちらへ向かってきています。寄り合い所帯のツケがここにきて回ってきたようですね……この隙をパルメニオン様が見逃すはずはありません」

 

 なるほど確かに、アレクサンドロスという特上の餌を前にペルシャ軍の戦線が大きく左翼に偏ってしまっていることは見て取れる。

 だがそれは、マケドニア軍の右翼にさらなる敵の攻撃が集中するということではないのか。

 今でさえ圧されているのに、このうえ中央の騎兵部隊の攻撃にまで晒されては耐え抜くことは難しいだろ、常識的に考えて。

 

 「愚かな味方は優秀な敵に勝るといいますが………どうやらペルシャ軍もその轍を踏むことになりそうですね」

 

 エウメネスの視線の先を見てオレは唖然と口をあけるしかなかった。

 もしもこの事態の推移をアレクサンドロスが読んでいたのならば、それは神技に近い洞察力だ。

 しかしそうした洞察の埒外にあって無意識に戦場の空気を嗅ぎ取ったのだとすれば、それは歴史に名を残す英雄のみに許された奇蹟であると表現するほかはない。

 中央から分派されてきたペルシャの騎兵集団は、なぜか鉄壁の布陣でマケドニア騎兵を阻み続けるギリシャ傭兵部隊の前に立ちふさがるように割り込んできたのである。

 

 

 

 

 

 「………このど阿呆がっ!」

 

 メムノンは歯軋りしながら無能な味方の暴挙を呪っていた。

 九分九厘まで勝利を掴みかけていたと思った矢先の出来事である。

 中央の騎兵を分派することは戦術的に正しいが、それはマケドニア軍右翼の背後へ機動して退路を断つのでなければ意味がないではないか。

 この戦いはアレクサンドロスの命を奪えるかどうかに懸かっていると、あれほど言って聞かせたというのに。

 

 中央部から突進してくるヒュパスピスタイを牽制しつつ、マケドニア軍右翼を完全な包囲下に置く事ができれば後はペルシャ軍右翼がどうなろうと知ったことではない。

 たとえ右翼が全滅したとしてもアレクサンドロスを討ち取ることができれば収支は大幅な黒字になるだろう。

 少なくとも左翼からパルメニオンが駆けつけない限りマケドニア軍右翼がギリシャ傭兵の堅陣を突破することはできないのは、今尚川中にあって上陸の足がかりさえ掴めていないことでも明らかだ。

 たとえアレクサンドロスが参陣しようともその鋭鋒を凌ぎきるだけの自信が、メムノンにはあった。

 それが見るも無惨な騎兵同士の乱戦に陥ってしまっては、もはやメムノンに打つ手はない。

 今や完全に密集歩兵の精鋭はその存在意義を失ってしまっていた。

 

 「………小人どもが目先の手柄に目が眩みおって………」

 

 メムノンの鼻先に割って入ったのはリュディア太守のスピトリダテス率いる一隊であった。

 スピトリダテスのみならず、小アジアの太守たちから自分が疎まれ敵視されていることにメムノンは気づいていた。

 傭兵は戦がなければ無用の長物である。だからこそ傭兵たちは戦を望み、戦がなければそこに戦を起こそうと画策するのだ。

 ゆえに彼らはマケドニアとの間に戦端が開かれた責任の一端はメムノンたちギリシャ傭兵にあると考えていたのである。

 しかもその中には戦功を挙げてペルシャ貴族たる地位を手に入れたものまで存在するとあっては彼らの心中が穏やかであろうはずもない。

 

 それでもメムノンは戦に勝利するためには一切の情を廃してペルシャの勝利だけを追及してきたつもりだった。

 戦場にあってはもっとも困難で犠牲の多い戦域を担当し、あまたの味方の命を救い幾度もペルシャに勝利をもたらしてきた。

 だからこそ味方が無能であるのはともかく、味方が利敵行為に及ぶとまでは考えが回らなかったのである。

 有能な将にありがちなことに、メムノンもまた無能なものに噛み砕いて手間をかけて話を理解させるということができない男であった。

 そうした疎通の齟齬が、太守たちをしてメムノンを警戒させ、足を引っ張ることを決意させたに違いない。

 すなわち、各太守に率いられたペルシャ騎兵部隊にはメムノンに手柄を立てさせる気など毛頭ないということなのである。

 

 「………軽装歩兵を援護に回して重装歩兵を退かせろ、急げ!」

 

 そう気づいた後のメムノンの決断は素早かった。

 機動力のない重装歩兵が戦闘に加入する機会はもう見込めない。であるならば再戦のときのために戦力の温存を図るべきだった。

 

 「よろしいので………?まだ戦は終わっておりませぬが………」

 

 「終わってからでは重装歩兵は逃げきれぬ。今のうち距離を稼いでおくのだ」

 

 それでもメムノンの指示に従うのはメムノンが直率するギリシャ傭兵の一部に留まった。

 このときペルシャ軍はマケドニア軍を圧倒しており、勝利を目前にして退却するというリスクを犯す決断ができなかったのだ。

 遊兵となった密集歩兵などいるだけ邪魔なのは明らかだったのだが………彼らは後にその命で逡巡のツケを払わされることになる。

 

 「この年でまだ学ばされることになろうとはな………次は味方に邪魔されぬ方法を考えるとしようか」

 

 メムノンの眼下で一際大きな歓声があがった。

 ミトリダテスの率いる見事な白馬の一隊が、アレクサンドロスへの道筋をこじ開けたようであった。

 

 

 

 

*********

 

 灯火に群がる蛾のように次から次へと押し寄せるペルシャ騎兵を前にして、とうに悠長な思考は失われていた。

 疲労のあまり口をきくことさえ億劫になりながらも、戦うことをやめるわけにはいかない。

 戦うことをあきらめたときがオレの死ぬときであるからだった。

 

 アレクサンドロスはさすがに英雄に相応しい武勇の持ち主であった。

 槍を二本も折り尽くすほどに多数の兵を討ち果たしている。

 王の左ではヘファイスティオンが奮戦していた。こちらも武勇においては王に勝るとも劣らない。

 また豪奢な装束に身を包んだヘファイスティオンは、アレクサンドロスの顔を知らないペルシャ兵を惹きつける格好の囮にもなっていた。

 死角にあたる王の背後を守るのはクレイトスである。

 二メートルに達しようという巨躯を利して、身をもってアレクサンドロスの危機を救ったことも一度や二度ではない。

 いや、厳密には王を守る役目はクレイトスとオレなのだが、どう頑張ってもオレは自分の身を守ることで精一杯の有様だった。

 三メートルという長いリーチを持ったマケドニアのサリッサは、距離を生かして戦う分には申し分のない武器だが、当たり所が悪く敵の鎧に弾かれたりして懐に入られると

 対応することがおそろしく難しい。

 現にクレイトスとエウメネスがいなければオレの命はとうに失われていておかしくなかった。

 小便などとうの昔に出しきっている。のどはカラカラにひりつき、頭は霞がかかったように思考が重い。

 殺人に躊躇や罪悪感を感じる余裕がないことだけが救いであった。

 夜風を切り裂いてペルシャ騎兵の投槍が飛んでくるのをオレはかろうじて打ち返した。迂闊に避けて王に当たるようなことがあってはならないので打ち返すほかないのだ。

 至近距離から投擲される槍が風鳴りとともに自分めがけて飛んでくるという恐怖は言語を絶する。

 単純に槍を打ち合わせればペルシャ騎兵など脅威ではないが、投射武器の多さこそがペルシャ騎兵の本領なのであった。

 

 期せずして歓声が沸き起こる。

 それも厄介なことにペルシャ軍の陣中に、である。おそらくはまた新たな援軍が現れたのに違いない。

 このままではパルメニオンの左翼が側背に着くまでに勝負は決まってしまうのではないか?

 最悪の予感が脳裏を掠めた。

 もはや史実を知ることなどなんの救いにもなりはしなかった。

 

 「そこにいたか!ミトリダテス!」

 

 アレクサンドロスが馬首をめぐらしてペルシャの主将の名を叫んだのはそのときだった。

 

 

 

 

  

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