第九話

 それは実に壮観な光景である。

 沿岸に遊弋するペルシャ艦隊、実にその数四百隻、マケドニア艦隊百六十隻の倍以上の数であった。

 ニカノルがペルシャに先んじて到着できたのはやはり僥倖だった。

 とてもではないがまともに戦って勝てる相手ではない。

 それは艦隊行動のすばやさや遊弋中の艦隊の整然ぶりを見れば、素人のオレの目にも明らかだ。

 

 「今頃やってきても遅いわ!どうやらペルシャ海軍の力も噂ほどではないようだな!」

 

 陛下、頼むからそのポジティブシンキングをなんとかしてくれないかな?

 もしかすると味方を鼓舞するためにわざと言っているのかもしれないけど………。

 

 我らが大王は今日も元気でした。

 

 

 

 

 ミレトス攻囲戦は実のところ苦戦していた。

 組み上げた投石器や攻城塔で少しずつ守備軍を追い詰めてはいるが、やはり沿岸で遊弋するペルシャ艦隊の存在が、ミレトスの守備軍に目に見えない力を与えているのである。

 数千名は下らないであろう援兵と莫大な軍需物資を満載した艦隊を目の前にして降伏しようとする守備軍はいない。

 当初はペルシャ艦隊に先んじた幸運に沸き立っていたマケドニア軍首脳部にも、日が経つにつれてペルシャ艦隊の脅威が重荷としてのしかかりつつあった。

 数において劣るうえ船乗りとしての練度でも劣るマケドニア海軍ではペルシャ海軍に正面から対抗するのは難しかった。

 幸い、先んじて湾内に入港することができたため、舳先を湾外へむけ船団を密集させることで湾口を閉塞することには成功している。

 湾口の広さが限られているため、こうして閉塞されてみるとペルシャ海軍も決定的な局面を造り出せず手をこまねいているのが実情であった。

 だからといって我が物顔で外洋を走り回られてマケドニア軍が気持ちのよかろうはずもない。

 敵味方ともに根競べの様相となった。

 

 基本的に根競べになると海軍側が不利になりやすい。

 海上では水を補給する術がないからだ。

 船員の水分の補給にも、調理にも水は絶対的に必要であり、しかも水は他の食物に比べても容積を取る上に物持ちが悪いものなのである。

 マケドニア軍の補給状態も決してよいものとはいえないが、それでも海上ほどの切実さは今のところ感じられないはずであった。

 だから忘れていたのだ。マケドニア王が決して持久や停滞を望む人となりをしてはいなかったということを。

 

 

 

 

 大空から一羽の鷲が飛翔してきたのはミレトスの包囲が始まってから一週間ほどが過ぎてからのことだった。

 巨大な羽を広げれば一メートル半になろうかという見事な大鷲である。

 高空から獲物を狙って急速に降下することが常の鷲が、こうして地上で羽を休めているのはひどく稀なことだ。

 ましてその場所が軍船の船尾であるとすればなおのこと。

 やがて鷲はまるで睥睨するかのように兵士たちを一瞥してのち、対岸の岸辺へと居場所を変えた。

 幻想的なその光景に誰もが見惚れるなかで、鷲はひどく甲高い声で鳴いた。

 

 

 「見たか皆の者!あの鷲こそは天よりの使者。我らがマケドニア軍に今こそペルシャに船戦を挑むべしとの神の啓示であるぞ!」

 

 

 そう叫んで拳を突き上げたのは、誰あろう我らがマケドニア王アレクサンドロス三世陛下であった。

 

 

 

 

 

 ………この気持ちをなんと表現すればよいのだろう。

 青天の霹靂か、茫然自失か、あるいはこの理不尽な結末への憤怒か。

 

 「う………あ………」

 

 動転のあまり上手く言葉が出ないが、とりあえずわかっていることは、

 

 

 ……………終わった…………

 

 

 ということであった。

 

 史学部四回生の誇りにかけて断言するが、その台詞はアレクサンドロスのものではない。

 たった今、歴史は変わったのだ。

 

 「へ、陛下……どうかお待ちくださいませ………」

 

 絶望に身を苛まれつつもかろうじてオレは言葉を吐き出していた。

 だが一気に血の気が引いた貧血気味の脳はいっこうに次の言葉を紡ぎだしてはくれない。

 心臓の鼓動だけが銅鑼のように耳を震わせ、噴出した汗がまるでサウナにでも入っていたかのように全身を濡らしていく。

 自分でも気づかぬうちに虚脱していた膝ががっくりと折れて、急速に迫ってくる地面を前にオレはかろうじて両手をついていた。

 

 脂汗をかきながら四つんばいの状態になったオレの様子はアレクサンドロスの目にも明らかに異様であったのだろう。

 

 「どうしたレオンナトス………ずいぶんと顔色が悪いようだが………」

 

 いったい誰のせいだと思ってるんだ!?……そう言いたい、だが言えない。

 深刻な動揺に空転しながらも脳は必死に解決の糸口を探している。

 何か、何かこの歴史の過誤を修正する手はないものなのかと。

 

 「おわかりになりませぬか?陛下のその無謀ですらない暴挙を前に、このものがマケドニアの未来に深刻な絶望を抱いたということを」

 

 そう言って慰めるかのようにオレの肩に手を置いたのは、誰あろう軍人筆頭重臣パルメニオンその人にほかならなかった。

 

 

 

 パルメニオン自重おおおおおおおおおおおおおおおおお!!

 

 

 

 終わった

 

 今度こそ終わった

 

 この期に及んではもはや修正は不可能だ。

 短かったなオレの人生……。

 さようならブカレスト大学四回生のオレ、そしてこんにちは、マケドニア軍人のオレ。

 受け入れがたい現実の重みに思わず涙が一筋流れて落ちた。

 

 「そもそもこれほど大規模の海軍を運用したこともなく、また創設から日も浅いマケドニア海軍と遥か古代から海とともに生きてきたフェニキア人やキプロス人とでは経験と実績が雲泥の差であることは明白。ここまで鍛え上げてきたマケドニア軍の忠勇無双な兵士たちをあたら犠牲にするような真似はこのパルメニオン、断じて認めるわけには参りませぬ。また、ひとたび海戦で負けるようなことあらば、サルディスをはじめとする降伏した諸都市にも影響することは必定。そればかりか内心ではマケドニアの支配を疎んじているヘラスがこの期に乗じる可能性すらあります。これでどうして船戦をがんじえましょうか?」

 

 朗々と響くパルメニオンの太い声が耳に痛い。

 その台詞は本来アレクサンドロスのものであったはずなのだ。

 そして初めの海戦の提起こそパルメニオンの言うべき台詞であった。

 それがどうしてこうも史実と真逆の結果になったものか………。

 

 「何様のつもりだパルメニオン!貴様、神意をなんと心得る!?」

 

 グラニコス川の時には自重したヘファイスティオンだが、今度ばかりは堪忍袋の緒が切れたようである。

 危ない目を輝かせて抜刀するや、猛然とパルメニオンに向かって突進を開始した。

 その姿からはもはや殺意以外のものを感じ取ることはできない。

 マケドニア軍で最も功績ある重鎮たるパルメニオンを殺害するつもりであるのは明らかだった。

 

 

 

 ところでこんなときではあるがオレはある重要な事実に気がついていた。

 オレの内面世界に存在する帰還のスイッチはなぜか今も変わらぬ姿でそこに在ったのだ。

 

 まさか………こっちが史実なのか!?

 

 そういうことならば頷ける。

 アッリアノスの著書に限らないが、歴史書を見る限りパルメニオンの事績はほとんどいいところがない。

 だが大王の前で無能をさらす引き立て役でしかない彼が、実利を重視するフィリッポス二世に軍人の筆頭として重用される道理がないのである。

 アレクサンドロスを神聖化するために貶められたと見るべきだった。

 変わっていない———!

 まだ歴史は変わってはいないのだ!

 

 

 「いよっしゃああああああああああああああああ!!!」

 

 

 反射的にガッツポーズをとって立ち上がるオレの目前に、いつの間にか憤怒で顔を赤黒く歪めたヘファイスティオンがいた。

 

 なじぇ………?

 

 

 

 「「ブフォオオオオオオオ!!」」

 

 

 

 かすかに疑問が脳裏をよぎったが、鈍い衝撃音とともに火花が散ったかと思うと、考える暇もなくオレの意識は闇の彼方へと連れ去られていった。

 

 

 

 

 

 (ふむ、同士討ちを避けるために徒手で身体を張るとは、思っていたとおり期待できる男よ)

 

 意識してやったのかはわからないが、レオンナトスの頭頂部が、立ち上がるときにヘファイスティオンの顎の先端を的確に捉えていた。

 もしもあのままヘファイスティオンが斬りかかっていれば、まず間違いなくヘファイスティオンの命はなかったであろう。

 冷静さを失った若者ごときに一対一で敗北するパルメニオンではない。

 だがそれは、アレクサンドロスを退くに退けぬ立場に追いやる行為でもあった。

 ヘファイスティオンを殺されてパルメニオンをただで済ますようなことがあってはアレクサンドロスの権威が保たれないのである。

 レオンナトスの身を挺した献身はアレクサンドロスとパルメニオンの両者を破局の一歩手前で救ったと言っていい。

 不恰好ではあるが無視できぬ功績を成し遂げたというべきだった。

 

 「あの鷲が陛下を祝福するものであることに否やはありません。しかし鷲はもとより空を舞う生物。それが地に降り立ったということは、恐れながら地上でこそマケドニアの勢威があがるように、との天啓ではあるまいかと臣は愚考いたしますが…………」

 

 継ぎ穂を失って言葉を発せずにいたアレクサンドロスとパルメニオンの間を取り持つように、穏やかな口調で語りかけたのはエウメネスであった。

 マケドニア艦隊の司令官的立場であるニカノルも我が意を得たりとばかりに頷いていた。

 一時的な狂騒に感化されかけたとはいえ、やはり冷静に考えれば海戦は非現実的であるという事実は動かせない。

 なまじ有能であるだけにマケドニア軍の指揮官たちにはそれが否応なく理解できてしまうのだ。

 アレクサンドロスも決して無能ではない。

 運気の潮目が変わり、士気が下がった今、決戦を仕掛けるのは無謀であることはわかっていた。

 

 

 「フィロータス!」

 

 「はっ」

 

 「ペルシャ艦隊の飲料水の補給先を突き止め、これを討て。ヘタイロイの一部と歩兵三個大隊を率いることを許す。目的を達するまで決して戻るな」

 

 フィロータスはわずかに頭を下げて、あえて意気揚々とこの命令を拝命した。

 

 「王命、謹んでお受けいたします」

 

 

 いささかアレクサンドロスの譲歩分が大きいとはいえ、妥当な落としどころというべきだろう。

 フィロータスはパルメニオンの長子であり、ヘタイロイの指揮官でもある。

 その彼に土地勘のない異郷で少数の別働隊を率いらせることは一種の懲罰人事ともいうべきものだ。

 だが海戦を否定してペルシャ艦隊との決戦を回避しようとしたのはパルメニオンであり、その責務の一部を息子のフィロータスが負うというのは全く筋がとおらぬわけでもない。

 フィロータスではなくパルメニオンを派遣することは、ペルシャ軍が王の道を経て援軍を送っているであろう現状ではリスクが高すぎた。

 パルメニオンの手腕には、さすがのアレクサンドロスも一目を置かざるをえないのである。

 フィロータスの派遣は現状では最善のアレクサンドロスの妥協点であった。

 

 こうしてミレトス湾沿岸での両国海軍の決戦は幻に終わった。

 

 

 

 

 

 「………というわけなんだよ。ウププッ!」

 

 そうした経緯をオレがエウメネスに聞かされたのは、翌日の朝になってからだった。

 激突の衝撃で頬には大きな青痣ができており、頭部には遠めにもはっきりとわかるほどの巨大なたんこぶが膨れ上がっていた。

 どうもその有様がエウメネスのツボを刺激してしまったらしく、先ほどから遠慮なく笑われてしまっている。

 相変わらず失礼な奴であった。

 

 「すいませんが諦めてください、レオンナトス様………」

 

 非情に気の毒そうな視線で慰めてくれるのはヒエロニュモスである。

 お互いエウメネスに虐待されているもの同士、視線を交わしただけでオレたちはわかりあえるのだ。

 いつかきっと下克上してくれるからな!

 

 

 

 

 

 

 ところでそのころ、自慢の秀麗な顔を青たんで不気味に変色させたヘファイスティオンが水鏡に映る自分の姿を凝視しながらブルブルと肩を震わせていた。

 

 「殺す、いつか必ず殺してやる……………」

 

 呟くように漏れたヘファイスティオンの言葉は、幸い誰の耳に届くこともなく、ミレトスを吹き渡る潮風に溶けて消えた。

 

 

 

 

 

    

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